カミソリ倶楽部代表取締役 竹内康起と、戦後から令和まで、日本のウェットシェービング市場と文化について振り返ります。
シックは戦略で日本市場を征した
カミソリ倶楽部の先代・竹内金蔵は在りし日の取材で「商品が良くて、宣伝が良くて、販売網が良ければ売れるのです」と述べていました。成功のカギはそこの見分け方であると。戦後、全くのゼロからスタートした「シック」が日本のカミソリ市場No.1を勝ち取った背景には、現在や未来にもつながるシンプルなマーケティング戦略の考え方が息づいています。
戦争が原因で機を逸し、日本人に適した片刃カミソリの販売をあきらめていた金蔵は、百貨店の外国人向けカミソリ売場に貼られていた大きなポスターで「シック」の「インジェクター」と出会います。小さな女の子がお父さんの髭を剃るそのビジュアルは、愛に溢れていると同時にインジェクターの安全性をアピールするものでした。「『インジェクター』は、独特の操作感や切れ味はもちろんのこと、刃に触れることなく安全に交換できるという点でも画期的な商品だったのです。私自身、米国留学中に現地の理容室で初めて体験し、これか、と思ったことを覚えています。(竹内康起談 ※以下略) 」これは行けると直感した金蔵は、エバーシャープシック社にサンプル送付を直談判します。
しかし当時の三宝商事(カミソリ倶楽部の前身)は20人ほどの小さな会社でした。戦後、外貨規制があり、輸入にあたってはドルで取引する必要がありました。つまり、自社の取引でドルを持っている企業でなければ、海外からの買い付けは難しかったのです。そのため、時計でドル取引実績のある「服部時計店(現セイコーホールディングス)」に輸入代理店を依頼して、三宝商事は国内の販売窓口として取扱いを開始します。
「輸入自由化当時の国内カミソリ市場は、フェザーが80%以上のシェアを占めており、同じところで一生懸命やっても、どうにかなるというものでもありませんでした。」同じルートで戦うことを避け、「シック」ブランド定着のために認知方法とイメージを検討します。両刃カミソリが大半を占める中で、とにかく片刃カミソリを使ってもらう機会を創り出すことが最初の課題でした。
「当時は海外から輸入されるものは『舶来品』として非常にイメージが良く、人気がありました。そこで、まずは百貨店で高級ギフトとして販売することにしました。贈られたものなら一度は使ってみるものですから。」両刃カミソリが主流の中で、片刃のインジェクターは百貨店のガラスケースの中に陳列されて600円(当時の物価は現在の1/4程度)。ホルダーへの名入れの大量注文なども集まり、人気のギフトとなりました。まずはホルダーを普及させることで、後々の替刃販売に貢献する結果となったのです。
ところがその時代も長くは続かず、消費の中心はやがて百貨店から量販店へと移っていきます。「量販店の時代の到来を先読みし、早めに全国的に量販店への販売体制にシフトしていきました。僕も売り場をチェックし、新たな売り込み提案するために、全国のスーパーマーケットを見て歩きました。学生時代に留学というか”遊学”していたアメリカでの経験も活かすことができてよかったです。」
ケースに入ってショーケースに並び、対面販売されていたカミソリは、自ら手にとってレジに運ぶセルフサービス店舗に対応するため、台紙と透明なプラスチックでブリスター・パックへと販売形態を変えていきます。「直接取引を頂くようになった頃はちょうど『スーパーⅡ』が発売されたころで、新しいパッケージが店頭に並んだ様子は、今も鮮明に覚えています。」スーパーマーケットにいち早く進出することで、「シック」の「インジェクター」そして同時期に注力していた「ステンレス替刃」のイメージは一気に定着し、「ジレット」や「フェザー」、あるいはライオンや花王の市場進出を振り切りました。テレビCMに力を入れて、広告宣伝に集中して資金投入したことも勝因のひとつです。「シック」の印象的なCMが記憶に残っている方も多いことでしょう。
一般消費者への徹底した認知拡大の一方で、三宝商事は全国主要都市に営業拠点を広げて、地域での販売活動も精力的に展開しました。やがて、カミソリは「二枚刃」時代を迎え、「ジレット」は二枚刃カートリッジ「GⅡ」で、日本市場での復活を図ります。しかし「シック」の「SⅡ」は、メーカー(ワーナーランバート社)側の英断で製品を空輸し、報道発表では遅れを取りながらも、店頭での全国販売を先行することで消費者に強く印象付けることに成功し、二枚刃対決に勝利します。
「資本も商品開発力もジレットの方が上です。パテント(特許)も持っているので技術的にもリーディングカンパニーです。ただ、我々はまさにメーカー(ワーナーランバート)・輸入代理店(服部セイコー)・販売代理店(三宝商事)が三位一体、強いパイプでつながれていました。」輸入開始当時「シック」を所持していたエバーシャープシック社極東支配人のピーター・オリバー氏は「日本での『シック』の販売は日本人に任せます」と明言しており、それはエバーシャープシック社がワーナーランバート社と合併してからも変わりはありませんでした。
竹内金蔵も同様の信念を持っていました。「日本市場は日本人がやる、その考え方を徹底して実行に移してきた父には敬意を抱いています。そして、それが成功の要因だったことは間違いありません。」。三社は定期的に会議を重ね、「シック」製品を広めていくことに圧倒的な当事者意識を持って対策を図りました。
現在も、企業が世界市場を目指す際には「グローバル」か「ローカル」か、選択を迫られます。今から50年以上前、日本のカミソリ市場に対して、世界的戦略に統合しようとした「ジレット」と、日本ならではのやり方を尊重し、適合しようとした「シック」。高度成長期の勢いにも乗って、自分たちの手で「シック」を日本一にする、と強い情熱を持った三宝商事との方向性の合致と一体感が「シック」の大きな勝因だったと言えるでしょう。